師より学んだ医師の心得〜人の命を預かる者として己を戒める〜

私がまだ研修医の頃に、随分昔ですが、指導医の先生から「医師の心得」と題したA4用紙を渡され、頂いた本「平静の心」に挟んで今でも大切にし、折に触れて拝読し初心に立ち返ります、その内容を紹介し、その原点に立ち若手医師を見守りたい。

我々は医師として様々な患者に接する。すなわち我々は医療の専門家として病気に対しているのではない。医療にたずさわるものとして病気を有するひとりの人間に対しているのである。患者に対して優位に立ちうるのは、我々の専門的知識のみ。多くの場合、患者家族の方が人生経験は豊富である。人間としてかりそめにも独善的な態度をとることは許されない。

我々の肉親が病むとき、医師に何をして欲しいかということを常に念頭において行動すべきであり、思考を進めるべきである。同時にまたわれわれはその振る舞いにも毅然たる態度をとり、日常診療の多忙さ、煩雑さに慣れて慣性化し、医師としての品位を傷つけるような態度をとるものは自ら医学の尊厳さを放棄した輩と考えざるをえない。いかに自らが真摯であっても、ひとはまず外見と言葉使いで判断するものである。前医、他医への誹謗・中傷、患者・家族への品位のない言葉づかいは、その内容が正当であっても届かないばかりか、自らの尊厳、評価をも下げるのである。医の心・平静の心で、不快な事象も許容し自らの糧としたい。

医療の中ではまだまだ治らない病気が多く、特にがんの場合、我々は治癒が望めずあてのない闘病生活をしいられている患者に接する。我々が診断、治療を行うにあたっては、自らの持てる知識、能力のすべてを投じて、最良の方法を見いださなければならない。その怒力のしない、長髪、無精髭、時間にルーズな医者に、自分の肉親を受け持ってもらいたいと思うものはいまい。我々の職業は、そのような曖昧さが許されるほどいいかげんな職業ではない。

知識を研鑽し、経験を血肉とし、今日までの1症例から明日の1症例を救うために

医学は自然科学の一分野にして、内科学もまた独立した学問である。疾患の概念、病態の解釈、治療方法の開発はまさしく日進月歩であり、我々は国際的に通用する医学を学び実践するために、日々up-to-dateな知識を吸収しなければならない。単に自らの経験のみにたより、新鮮な国内はもとより海外の文献に接しないものは、自らの墓穴を掘るに等しいものと考える。

医学はまた実学でもある。技術の習熟に努めることは当然であるけれども、それは多くの患者の痛みのうえに得るものであることを忘れてはならない。

医学はまた一面経験が重視される。知識や技術はもとより経験年数に正比例するものではないが、我々は多くのものを先輩諸兄から口頭であるいは文献を通じて学んできた。また我々自身も多くの試行の末に会得したものを少なからずもっている。我々は先輩の英知を正しく後進に伝える義務があるとともに、後輩に自分と同じ回り道を歩ませる愚をおかさせてはならない。また患者のそれぞれの臨床経過はいまだ未解決の病に対してその命をかけて示したひとつの表現であり、そこから得られたものを自らの経験だけにとどめることなくただしく後進に伝えてこそ主治医としての責務を果たしたといえるのである。“sterben した”だけでは患者はうかばれない。その意味において貴重な症例や新しい試み、臨床的な集計などをまとめ報告することは、それ自体に意味があるとともによい勉強となりよい刺激となる。

急変に際しても”平静の心”を保ち治療、説明にあたる主治医たれ

最後に患者を対象とするかぎり、急変の事態に遭遇することが多々あるが、その際の担当医が動揺することなく“平静の心”をもってその病態に応じて適切な病状説明、点滴等の指示がなされ、すみやかに実施されれば、病棟が混乱するということはありえない。そう感じるのは自らの治療が反応するか否かの医師のもどかしさと重症患者を扱う病棟内の忙しい雰囲気ゆえであって、重症患者治療にあたっては往々にして生じる感情と理解される。主治医はできるかぎりスムーズに治療できるように常日頃より患者family に対して状況をインフォームしておくべきである。また自らの治療指示によりもたらされた結果に対してはその事実を厳粛に受け止め反省し、明日への治療につなげるべきであることは言うまでもない。

参照 : 「平静の心」(オスラー博士講演集)日野原重明、仁木久恵訳、医学書院
          「道は必ずどこかに続く」日野原重明著 講談社